漫画「芋くさ令嬢ですが悪役令息を助けたら気に入られました」をネタバレ解説
侯爵家の令嬢、アニエス・ラロシェルは、社交界の片隅でいつもひっそりと立っていた。
着ているのは、祖母の代から受け継がれた古臭いドレス。袖口のレースは重く、裾は不必要に広がっている。髪型も化粧も時代遅れ。彼女がそうした趣味を持っているわけではない。すべては家の「伝統」と称する決まりによるものだった。
舞踏会の夜、煌めくシャンデリアの下でも、彼女の周りには壁のように空白ができる。
貴族たちは視線を向けても、すぐに逸らした。
「芋くさい令嬢」――陰口は耳に入っても、アニエスはただ微笑んでいた。
反論しても、家族に言い返しても、何も変わらないと知っていたからだ。
その晩、場の空気を切り裂く声が響いた。
「ナゼルバート・ガルシア! この婚約は破棄します!」
振り返れば、国王の愛娘が紅潮した顔で公爵家の次男を指さしていた。
ナゼルバート――噂では冷酷で傲慢、社交界の“悪役令息”。
しかしアニエスの目に映った彼は、ただ静かに怒りを押し殺している男だった。
その瞳の奥に、一瞬、孤独な色が走ったように見えた。
気がつけば、アニエスは一歩前に出ていた。
「お待ちください。ナゼルバート様は何も悪くありません」
会場がざわめく。王女の視線が、刃のように彼女を射抜く。
「では――あなたが彼と結婚なさい。そして、辺境へ行くといいわ」
それは罰のような宣告だった。
こうして、アニエスは望まぬ婚約者とともに、王都から遠く離れた辺境へ送られることになる。
だが、辿り着いた地は、想像していた“追放の地獄”ではなかった。
澄みきった空気、果てしなく広がる草原、そして冷たいが誠実な眼差しの夫。
彼は領地を守るために日々尽力しており、噂とは正反対の人物だった。
「君は……好きにすればいい」
そう言ってくれたとき、アニエスの胸の奥で何かがほどけた。
新しい服を選び、髪を結い直し、化粧も自分の手でやってみる。
鏡の中には、芋くさい令嬢ではなく、生き生きとした女性が映っていた。
領民たちはそんな彼女を歓迎し、やがて辺境の暮らしは、二人の笑顔と共に色づき始める。
だが、王都では依然として陰謀が渦巻いていた。
ナゼルバートの名誉を奪い、辺境を混乱させようとする者たち――。
平穏な日々は、やがて大きな試練に呑み込まれていく。
それでも、アニエスはもう、かつての“何も言えない令嬢”ではなかった。
彼女はこの地と、人々と、そして彼と――自分の選んだ道を守るため、立ち上がる。
これは、芋くさ令嬢と呼ばれた少女が、自分の手で運命を選び取り、
悪役令息と呼ばれた青年と共に歩み出す物語。
追放は罰ではなく、新しい未来の扉だった。
辺境での生活が始まって数ヶ月。
アニエスは毎日土に触れ、領民と語らい、時には領地経営の帳簿まで覗くようになった。
最初は不安げだった人々も、彼女の誠実さに笑顔を見せるようになる。
市場には少しずつ新しい作物が並び、収穫祭の準備に町が賑わい始めた。
「こんな辺境にも、こんな笑顔があったんですね」
アニエスがそう呟くと、ナゼルバートはほんの僅かに口元を緩めた。
「君が持ってきたものだよ」
しかし、平和な日々の陰で、黒い影は確実に忍び寄っていた。
領内に入り込む得体の知れない商人。
不可解な食糧不足と、夜間の魔獣被害の急増。
そして、王都から届く匿名の手紙――「悪役令息は辺境で不正を働いている」。
「これは偶然じゃない」
ナゼルバートの瞳が鋭く光る。
調べを進めるうちに、王都での古い因縁が浮かび上がった。
かつて彼を失脚させようとした貴族派の一部が、王女の名を隠れ蓑に、辺境を混乱させていたのだ。
ある夜、領地の外れで密会する一団をアニエスが偶然目撃する。
月明かりに浮かぶ顔――それは、かつて王都で彼女を嘲った伯爵家の令嬢だった。
「ここで手を引けば、あなたの夫は安泰よ。…もちろん、あなたも」
甘い声に、アニエスは静かに首を振る。
「私の夫と、この土地を侮らないで」
その返事は、敵に本格的な攻勢を促すことになった。
秋の収穫祭の夜、突如として領地の一部が炎に包まれる。
村人たちが必死に消火に当たる中、魔獣が暴れ、倉庫の物資が奪われる。
混乱の最中、王都から派遣された調査団が到着――
「やはり、ガルシア公爵家の次男は辺境で暴政を…!」と叫ぶ声が響く。
その場で糾弾を受けるナゼルバート。
しかし彼は怒らず、ただアニエスを見やった。
「信じてくれるか」
迷いなく頷く彼女の瞳に、かつての芋くさい令嬢の影はもうなかった。
――これは罠だ。
二人は直ちに証拠を集め、黒幕を暴くために王都へ向かう決意を固める。
燃え落ちた倉庫の跡に、冷たい風が吹き抜ける。
辺境を救い、愛する人を守るため、二人はもう後戻りできない道を歩き出していた。
冬の気配を帯びた風と共に、アニエスとナゼルバートは王都へ入った。
華やかな街並みは、かつての彼女にとって息苦しい檻だったが、今は違う。
「この街を恐れるのは、もうやめましょう」
彼女は背筋を伸ばし、堂々と石畳を踏みしめた。
二人が向かうのは、貴族会議が開かれる大広間。
そこには、王族、重臣、そして今回の調査団を招集した黒幕が揃っているはずだった。
王座の横には、あの王女の姿もあった。表情は優雅に整っているが、その瞳の奥に計算の色がちらつく。
「ガルシア公爵家次男、ナゼルバート殿。辺境での暴政と資源横領の嫌疑がかかっている」
読み上げられる罪状に、場内がざわめく。
ナゼルバートは動じず、静かに口を開いた。
「では、証人と証拠をここに」
その言葉と共に扉が開き、数人の領民たちが入ってきた。
アニエスが集めた証拠――奪われた物資の印章、偽造契約書、そして密会の目撃証言。
続いて現れたのは、密輸商人の頭目だった男。彼は怯えながらも吐き出す。
「命令したのは、この者たちだ」
指さされた先に立つのは、幾人かの高位貴族。
中には、かつてアニエスを侮辱した伯爵令嬢と、その父の姿もあった。
広間に緊張が走る。
だが、黒幕はなお否定を続ける――
「証拠など捏造できる。辺境の者など信用できぬ」
その瞬間、アニエスが一歩前に出た。
「では、私の言葉も信じられませんか?」
かつて芋くさい令嬢と呼ばれ、誰からも目を向けられなかった女が、
今や全員の視線を真正面から受け止めていた。
「私は辺境で生きる人々の笑顔を知っています。
そして、彼らを守るために尽くすナゼルバート様を知っています。
嘘をつく理由も、必要も、私たちにはない」
その声は広間の隅々まで届き、ざわめきが静まり返る。
王女は唇を噛み、貴族派の数人が顔を伏せた。
やがて国王が低く告げる。
「真実を偽りで覆う者こそ、この国に不要だ」
黒幕は拘束され、王女には謹慎の命が下る。
しかし、すべてが終わったわけではなかった。
会議のあと、ナゼルバートは静かに言った。
「まだ一つ、片付けねばならないことがある」
それは――アニエスの実家との決着だった。
侯爵家の屋敷。
重厚な扉の向こうには、父母、兄弟姉妹が揃っていた。
かつての彼女を縛り、見下し、ただ“家の形”を守らせた家族。
アニエスはゆっくりと、しかしはっきりと告げた。
「私はもう、あなたたちの決めたドレスも、言葉も、道も選びません」
母の瞳に驚きが浮かび、父は言葉を失う。
その横でナゼルバートが一歩前に出る。
「彼女は私の妻だ。これからも、私と共に歩む」
沈黙の中、アニエスは背を向ける。
もう振り返らなかった。
――その夜、二人は辺境へ向けて旅立つ。
道中の空には雪が舞い始め、冷たい風が頬を撫でた。
だが、その手は確かに繋がれていた。
そして、春。
辺境では、新たな収穫祭の準備が始まっていた――。
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